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こちらの記事では、初唐(唐の初めごろ)の「王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王(おうぼつ・ようけい・ろしょうりん・らくひんおう)」を紹介させていただきます。
この四人は「初唐四傑」と云って、唐の初めごろの有名な作者なのですが、実はそれぞれけっこう作風が違っていて、しかもそれぞれすごく初唐らしい……という感じになっています。
まず、初唐らしさとしては、「賦・駢文(対句の多い美文)に、七言歌行を混ぜている」というのがあります。

歌行とは、題名が「○○行」「○歌行」みたいになっている後漢の民謡で、内容としては「死生離別の悲しみを感じたら、ぜひわずかな間でも楽しく生きましょう♪」みたいな感じです(後漢の歌行は一句五字でしたが、七言歌行は一句七字verです)
あと、賦はもともと擬態語を多用して、漢代の宮室・儀礼などを詠んでいたのですが、六朝後半(梁くらい)から、少しずつ中国南方の風景や恋情などを描くようになります(こういう賦は、六朝期の長江あたりの民謡っぽいです)
そして、初唐は、これらの要素がすべて詰め込まれて巨大化したような、かなり異様なスタイルになります(これがとても美しいのです……)
というわけで、ここからはそれぞれの作風の紹介に入っていきます。
王勃
咸亨二年(671年)の六月……、梓潼県長の韋氏は、心はひっそりと深くして、世を安らかにして、県内もおだやかだったので、舟を水辺に浮かべて、山林を眺めて遊び、はらはらとして山水のうちに心も散るごとき思いがして、心はどこまでも遊ぶようで、ひらひらと時を過ごしたのでした。
そんなとき、瀛洲蓬莱の仙山は、あちこちの川などに浮かんでいるような気がして、この遊びを共にしたのは、わずかな者たちだけなのでしたが。
咸亨二年六月……、梓潼県令韋君、以清湛幽凝、鎮流靖俗、境内無事、艤舟於江潭、縦観於邱壑、渺然有山林陂澤之思、遂長懐悠想、周覧極睇。……覚瀛洲方丈、森然在目。……預於斯者、若干人爾。(王勃「梓潼南江泛舟序」)
王勃は、たぶん初唐四傑の中で、もっとも完成度が高いです。そして「今日、わずかばかりの楽しみを得て……」みたいな、ひとときの美しさを感じさせるのが王勃っぽいです。
ここでも、最後の「この遊びを共にしたのは、わずかな者たちだけなのでした(預於斯者、若干人爾)」というのが、わずかな間の楽しみっぽくないですか……。あと、「江潭・邱壑・山林陂澤」みたいに、風景はやや遠巻きで、ちょっと緑っぽい感じがします(笑)
ちなみに、こんなふうに対句が多い文体を「駢文(べんぶん)」といいます。王勃の対句って、「長懐悠想」みたいに、前半と後半で似ている意味になるものが多いです(長・悠はどちらも長い、懐・想はどちらも想いです)。この歯切れの良いまとまりも、王勃の魅力だとおもいます。

楊炯
玉宮は夜にひっそりとして、銀の檐は朝に耀いて、その霊德は月のごとくして、忽ちにして雷に化し、山川は支え聳えて、星の光はめぐり祀り――。古き世の事が済みて、天はどこまでも深い夜――。
鬱々たる霊山、ごつがつたる巌石。その鋭きこと五千尺、天を離れること わずか三百尺。霊木はくねくねと柔らかくして、夜には星が降るような――。石室を徘徊すれば、銀の露が散りました。
璿宮夜敞、銀榜朝開。德象陰月、声符震雷。山河翼戴、星緯塩梅。能事畢矣、乾元大哉。
鬱鬱霊鎮、岩岩積石。直上五千、去天三百。帝休非遠、真経可覿。石室徘徊、瓊膏滴瀝。(楊炯「少室山少姨廟碑銘」)
なんていうか、楊炯って「堅い」んですよね……。
こちらの作品は、嵩山(すうざん。河南省の霊山)の中でも、少室山という山に住んでいる神を讃えたものになります。
嵩山は、四方&中央を鎮める霊山のうちでも、中央を任されている山で、太室山・少室山に分かれています。そして、それぞれに三十六峰があり、太室山には姉神、少室山には妹神が住んでいるとされています(ちなみに、嵩は「崇高な山」のこと)
楊炯って、ぎらぎらと仰々しくて、ちょっとゴテゴテ過装飾な味わいがあります。「璿宮夜敞、銀榜朝開(玉宮は夜にひっそりとして、銀の檐は朝に耀き……)」って、人工物をがちがちに固めたような感じです。
ですが、楊炯の魅力はむしろ、わずかにのぞく「古き世の事が済みて、天はどこまでも深い夜――(能事畢矣、乾元大哉)」みたいに、ちょっとだけ見えきれない何かがぼんやりとほのめかされているところです。
これが入ると、すぐ周りには祭儀の飾りなどがたくさん並べられているけど、遠くにわずかに深い夜がのぞいているような……という気分になります(七言歌行の「わずかばかりの楽しみ」が大きく描かれていて、死生離別の悲しみが遠くに下がっているというか)
「鬱々たる霊山、ごつがつたる巌石……」のほうも、「天を離れること わずか三百尺(去天三百)」がいい味を出しています。銀の露や古き世の石室などがみえているのに、どこかまだ天に届かないというか、“明るく整っているけど、わずかに薄暗さがみえるかもしれない”という雰囲気です。
ちなみに、霊山を讃える系の作品は、漢代の碑文では多くあります。でも、楊炯はかなり繊細な飾りが多くて、ぎらぎらと華やかに塗り固めてあります。

盧照鄰
梓州の池邸は、ただその岩壁の曲がり重なり、川の注ぎ入りて、飾り窓のさらさらとした絹の帳は、遠くに絳い塀をめぐらせ、流れに臨む阪の楼は、深き堀を近くにそなえて、まさに四川の名邸というもので……。
その丸い淵には鏡のごとく、さらさらと落日の光が流れていて、もろもろの樹々は幃(カーテン)の如くして、ちらちらと淡い霧の路を遮るので、藤葛はもやもやと暗くして、薄ら暗き蔭のなかで秋の色が深まっていくような――、浮かぶ鳥たちはちろちろとして、まれに鳴くかと思えば忽ちにして日が落ちていくようでした。
梓州城池亭……、徒観其岩嶂重複、川流灌注、雲窓綺閣、負繡堞之迤迤、澗戸山楼、帯金隍之繚繞、信巴蜀之奇制也。……円潭瀉鏡、光浮落日之津、雑樹開幃、彩綴飛煙之路。藤蘿杳藹、掛疏陰以送秋、鳧雁参差、結流音而将夕。(盧照鄰「宴梓州南亭詩序」)
さらさらと流れていくような雰囲気です。
盧照鄰って、すごく楚辞っぽいんですよね。ちなみに、楚辞(戦国期の楚でつくられていたスタイルで、土着の神や風物などをえがいていた)が、しだいに土着色を消していって漢代の賦になっていると思ってください。
楚辞では、かなりたくさんの擬態語が出てきて、しかもうねうねもやもやと南方の奥深い山中のような雰囲気があります。ここでも「迤迤(いい)」はうねうね、「杳藹(ようあい)」はもやもやというふうになります。
あと、楚辞って、自然物が少しテカテカしているというか、「水中に室をつくりて、蓮葉を屋根にして……(築室兮水中、葺之兮荷蓋)」だったり、「紫貝の楼閣にして、赤々として照らされて……(紫貝闕兮朱宮)」みたいに、やや人工っぽさが混ざっている感があります(いずれも楚辞・九歌より)
これは盧照鄰でも、「雲窓(雲のごとき飾り窓)」だったり、「雑樹開幃(もろもろの樹々はカーテンの如くして)」みたいなところがすごく似ていておしゃれです。

駱賓王
はるか離れた地にては、山河も萬里をへだてているので、日頃より言いそびれたことなども、何年も溜まってしまいました。わたしはひっそりとこちらで過ごしていて、吉凶禍福の話なども耳に入らぬゆえ、想いを漏らすときも無く、たださらさらと日々が終わっていくばかりでした。
そんな中、おもわず短い手紙などをいただき、私を忘れていなかったのかと嬉しく思うとともに、まだ返事を書く前から、みずからの怠惰さを情けなく思うのでしたが……
風壌一殊、山河萬里。或平生未展、或暌索累年。存没寂寥、吉凶阻絶。無由聚洩、每積淒涼。……不意遠労折簡、辱逮堙淪。雖未敘言、慙如披面。(駱賓王「與親情書 其一」)
なんか泣かせるね……。この渋さというか、乾いた感情の豊かさというのかよくわかりませんが、こういうガサガサとした中での想いが溢れている感が、すごく後漢の歌行に似ているのですよね。
後漢の歌行って、わたしのイメージですが「人間の一生の中に悲しみがあるのではなくて、悲しみが大きく流れている上に、人間の一生が浮かんでいる」みたいな雰囲気があります。
七言歌行は、その上にさらにぎらぎらとした風景などが飾りとして入ってくるのですが、後漢の歌行はもっと骨っぽいというか、むき出しの荒涼とした世界になっています。すごく人間が小さくて、ガサガサとして何もない世界――というのが、とても駱賓王らしいなぁ……と思います。

というわけで、王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王をそれぞれ紹介してみました。
すごく大きくまとめると、いずれも賦・駢文などに七言歌行っぽさをまぜているけど、死生離別の悲しみとわずかな喜びの割合だったり、中心にあるスタイル(楚辞、後漢の歌行、後漢の碑文……)などがかなり異なっている、というふうになります。
ちなみに、この四人については「王勃高華、楊炯雄厚、照鄰清藻、賓王坦易」というふうに作風を評した人がいます(明・陸時雍『詩鏡総論』)
王勃は「高く華やか」というのは、たぶん今日のわずかばかりの楽しみ――という感じ、楊炯の「どっしりとしていてゴテゴテしている」というのは、たくさん並べられた祭儀の飾りのような仰々しく固められているイメージに似合います。
盧照鄰の「清藻(清らかな文辞)」というのは、たぶん自然っぽさの豊かな楚辞ふうの云い回し、駱賓王の「坦易(平坦でまっ平ら)」というのは、おそらく後漢ふうのがらんとして荒涼たる世界かもです。
こんなわけで、かなり突っ込んだ記事になってしまいましたが、お読みいただきありがとうございました。